じぇねろぐ。〜for new generation〜

世界のこと、留学のこと、ありのままに

本を読もう

本題に入る前に、ひとつ質問です。

 

みなさんは月に何冊の本を読みますか?

 

そこの嫌な顔をしたあなた。その感覚は正解です。

読書の才能があると思いますよ。

 

実際、この問いは不毛です。たぶん、この問いが大好きな大人は本を読んでいません。質問返ししてみたらよいともいますよ。きっと嘘をつくか、最近は忙しくて読めていないなどと情けない言い訳を吐くので。

だって、読書の冊数は本質ではないのですから。読んだ本の数に比例して人間の価値が上がるなら、学校なんて通う必要がありません。

 

書籍の優位性とは

 

さて、本題に入ります。

今回、私が主張したいのは、「情報収集の手段として」の書籍の優位性についてです。

 

ぶっちゃけた話、いいんですよ、別に。本なんて読まなくても。実際問題、YouTubeもインターネットもSNSも情報収集のツールとして優れていますから。

「読書」そのものには価値はありません。ただがむしゃらに本を読めばよいわけではありません。意味のない読書は、惰性で行うネットサーフィンとなんら差はありません。

 

それでは、意味のあるものにするにはどうすればよいのか。

持論ではありますが、その答えの一つは「目的を持つこと」です。

 

難しいことはありません。「何を得たくて本を読むのか」を明確にすれば良いだけです。

たとえば、純粋に物語を楽しみたいから小説を読む、作家の哲学に触れたいから小説を読む、習得したい技術があるからビジネス書や参考書を読む、純粋な知識の集積のためにとにかく本を読み漁る……といった感じです。

 

読書とインターネットと差別化できる部分は、本からは「体系化された知識」を得やすいことに尽きると思います。

情報の正確性が……などという大人もいますが、確かに確率の問題で言えば書籍の方が正確な情報に出会えることが多くなるのでしょうが、情報の新陳代謝が早い現代、書籍の情報が間違えていることも往々にしてあるため、決して本だけに許された特性ではないでしょう。情報が正しいかどうかを判断する能力は、メディアにかかわらず必要です。

 

ピンポイントで欲しい知識があるときは、ネットはとても有用です。たとえば、『天気の子』の監督の名前を知りたいと思いたったとき、インターネットで検索をかければすぐに、新海誠監督だとわかります。例がわかりにくいですね。

じつは、ネットのこの強みは読書でも生きてきます。本の中でどうしても理解できない記述が出てきたとき、本の中の記述ではものたりなかったとき、本の中の情報がそもそも誤っていたとき、などなど、本の情報を補強するためにインターネットは活躍します。グーグル先生にはいつもお世話になっております。

あともう一点、インターネットは速報性という観点でも非常に優れています。これはわざわざ語る必要はないと思いますが。ゲノム編集について調べたいのに、CRISPR-Cas9について書かれていないような骨董品を用いていては、手段を履き違えていると言わざるを得ません。

 

 

でも、例えば「SDGs」を「ビジネス」に「応用」したいとき、本は有用になります。

ここで求められているものが「体系化された知識」だからです。複数の情報を統合した情報が欲しいとき、インターネットではいくつものサイトを何時間もかけて比較しなければなりません。そんなとき、その道のプロが書いた本を1冊だけ見つけてくれば、大筋を一気につかむことができます。ここに読書の強みがあります。

 

自己流速読術

 

「でも、時間がなくて本なんて読めない」という方に、いくつか私が実践している読書法を紹介します。

 

1、読む前に巻末の発行年月日を確認する

 

この作業によって情報の鮮度を確かめることができます。残念ながら、世の中には「賞味期限切れ」の情報が存在します。先端科学の分野などに顕著ですが、とにかく情報の新陳代謝が早い。そこで、発行年月日を調べることで、いわゆる「ハズレ」を引いてしまう可能性が下がり、より効率的なものにできます。

ただ、発行年月日が古い本はすべて価値がないかというと、もちろんそのようなことはありません。目的によって選ぶべき本は変わってきます。それに、世の中には、情報鮮度が落ちにくい本、いわゆる「ベストセラー」もあります。頻繁に増刷がかかっているので見分けるのは簡単です。

 

2、目次を読み込み、書いてある内容を予想する

既に知っている部分を読み飛ばすことができます。目次だけで想像できるような内容ならば、時間がない時にわざわざ読む必要はありません。

 

3、助詞を読まない

「は」「に」「を」などの助詞を無視し、文の繋がりはなんとなく脳内で補完して読みます。やってみると、案外、簡単です。

 

速読を学んだことはなく我流なので、後ろ二つは参考までに。

情報収集のみが目的ならば、1文字ずつ丁寧に精読する必要はありません。つまらない部分は適当に読み飛ばしましょう。

 

おわりに

 

最後に、個人的な話ですが、私は「読書は対話である」と考えています。

よい本は自分の主観では見えなかった世界を見せてくれます。自分の世界をぐっと広げてくれます。それは単純に、本の中にある新しい知識から得られるものではありません。著者が選んだ言葉の一つひとつには、著者の本当の意図が込められている。ここを想像しながら読むと、読書は一層深いものになります。ここにはいないはずの著者を、すぐ目の前に想像できる。時間や場所を超えて友情すら感じることもある。

そこに一番の読書の価値があると私は思っています。

退屈な秋の夜長に、あなたにとっての珠玉の一冊を発見してみてはいかがでしょう。

ベトナムコメのブランド戦略

みなさんこんにちは。私は現在ベトナムでこの記事を書いています。

今回ベトナムに来ている目的の一つとしてベトナムの経済について学んでいるのですが、1つの課題としてベトナム食品のブランド力の無さが挙げられました。

ここでいうブランドとはGUCCILOUIS VUITTONと言ったファッションブランドのことではなく、日本でいうコシヒカリや松坂牛と言った食べ物のブランドです。

このブランドがあることによって、少し値段が高くても”このブランドだから購入する”という消費行動が生まれます。

 

ベトナムブランドの現状

 

ここで1つベトナムの現状の例を挙げましょう。

日本ではベトナムコーヒーはインスタントコーヒー用になっています。

つまり、日本では安価な商品向けのものとして利用されているのです。また、インスタントコーヒーだから買うのであって、”ベトナムコーヒーだから買う”のでは無いのです。

ここに存在する問題点は、利益率の悪さです。利益率が悪いと、単位量あたりの利益が減少します。

今、ベトナムを含めた多くの新興国ではこの利益率の悪さを、安い人件費による大量生産で補っています。しかし、ベトナムが成長し人件費が上昇すれば大量生産だけでは国際競争には勝てなくなるでしょう。

コメも同様に、ベトナム国内でさえも、多くはブランドに関係なく全て”メイドインベトナム”として捉えられます。(ベトナムのコメにももちろん品種はあるのですが、日本のように高級なお米があるわけではありません。輸出する際も”安価であること”を生かして東南アジア圏にコメを輸出しているのが現状です。)

 

日本のコメのブランド

 

この様な現状を見て、コメを例に挙げて、日本がコシヒカリあきたこまちのようなブランドを作ることに成功した、という経験を伝えることができるのではないかと考えました。

日本のコメのブランドは、地道な品種改良と正しい農法、そして品評会による高い評価によって与えられます。

この品評会は一般財団法人の日本穀物検定協会によって行われ、コメの食味ランキングを発表しています。そして、最高ランクの特Aを獲得したものがブランド米としてのステータスとなります。よって厳しい審査を乗り越えており、質が保証されているからこそ消費者も高い金額を払うのです

コシヒカリあきたこまちと聞けば、たいてい日本人は「高くて美味しいお米」と思い浮かびます。その認識があることによって、少し高くても消費者は購入し、利益を大きく生むことが出来ます。

 

ブランド戦略への提言

 

一方、コメにブランドが無く、美味しいコメも美味しく無いコメも同じ”コメ”として売られていたらどうなるでしょうか。

競争が起こらないため農家の意欲は増加せず、品質は向上しない。そのために需要が減少し、価格も減少していく。それを大量生産でなんとかする。

私は経済を専門にしているわけではないため1つの予想に過ぎませんが、このような事は現に起こっていると考えられます。

 

ただし日本と同じことをするのでは成功しないでしょう。というのは、日本とベトナムでは食生活が異なるからです。同じ米が主食の国とはいえ、ベトナムで食べる米はフォーなどの米粉麺だったり、ライスペーパーだったりします。

だから、日本のようにコメそのものの味を評価してブランド化するよりも、いかに加工したときに美味しくなるか、といった別の評価基準でブランド化することがより適していると思います。

 

おわりに

 

「日本の農業は弱い」とよく言われますが、このコシヒカリあきたこまち、その他色々、コメのブランドが存在している事は日本の大きな農業の強みであると思います。

 

新興国ベトナム、いま行うべき事は設備や農法の教育かもしれません。しかし、それによる大量生産だけではいずれ大きな利益を生む事は困難になります。だからこそ日本が行ってきたように、しかしベトナムならではのブランド力の向上が農業における成長の1つのテーマになるのではないでしょうか。

選挙に行こう!

 お久しぶりです。テストも無事終わり、夏休みに突入しダラダラと時間が経過してしまいました。

 先日、参議院選挙が終わりました。皆さんは今回の選挙に行きましたか?私は、不在者投票について知らなかったので投票に行っていません。不勉強でした、ごめんなさい。
さて、今回の選挙後話題をかっさらったのはなんと言っても「れいわ新選組」と「NHKから国民を守る党」でしょう。彼らの演説や政見放送では、難しい話をほとんどせず、どの世代にもわかりやすいように構成されていたのではないかと考えます。メッセージも単純かつ明快で、聞いていて飽きないような演説でした。二つの諸派扱いだった政治団体が、今回の戦後二番目に低いと言われる投票率の中で、政党要件を満たしたことはすごいことだと思います。私は右左関係なく、今後この二つの政党の動向に注目していきたいと思います。

私は、今まで政治にあまり興味がなく、どの政党に入れようが、どの政党が政権を握ろうが、私たちの生活は変わらないと思っていました。いや、実際目に見えて変わるようなことは、私にとって何一つありませんでした。それは親の扶養に入っているから、あるいは自分が不勉強であるからに他ならないかもしれません。

そもそも、大学に入るまで、友人と思想や政治の話をしたことなどほとんどありません。政治の話をすると意識高いだとか、自分たちには関係ないだとか、興味ないとかそんな意見ばっかりです。どうしてそんな空気があるのでしょうか。政治は私たちの身近な話題であるはずなのに。二ヶ月後の消費税10%への引き上げは皆さんにとっても、人ごとではないでしょう。この問題を受けて初めて、私は政治への興味をそそられました。20年間生きてきて今頃なんて遅すぎますね。ですが、私のような人も少なくはないのではないでしょうか。今回はそんな方に向けて選挙に行った方がいいと思う理由を、主観を交えて書いていこうかと思います。

 

 

何で選挙に行かなきゃいけないの?

 皆さんは現在の選挙で民意が反映されていると考えますか?私はそうは思いません。今回の参議院選投票率はなんと48.80%だそうです。国民の二人に一人は選挙に行っていない状況。そんな状況下では各党の支援団体にとっては非常にうれしいですよね。支援団体は政党に献金する代わりに自分たちの代弁者を国会に送り込んでいると言っても過言ではありません。その中で、国民の投票率が下がれば、もちろん有力な支援団体の思い通りに政治は進みます。彼らの大半はお金持ち、しかし我々の大半は庶民です。庶民が投票に行かないのに、どうして政治が良くなるのでしょうか。庶民の声を届けるためには、お金持ちでも何でもない私たちがちゃんと投票に行き、少しでも政治に反映されるようにすべきなのではないかと思います。


少子高齢化という国難

 あなたもご存じの通り、日本は少子高齢社会です。そして日本は民主主義国家です。民主主義は多数派が尊重されます。多数派とはどの年代ですか?間違いなく人口も投票率も高い高齢者でしょう。加えて人口が少ない若者が選挙に行かないという状況。年々若者の投票率は下がっているそう。そんな状況下で若者に向けたマニフェストなど誰が作るのでしょうか。選挙は当選しなければ公約を果たすことはできません。公約を作ってもらい国政に送り込むには若者の票が不可欠です。我々の生活の大本を作っているのは他でもない政治です。自分のような若者が変わらなければ、国が変わることはありません。年金問題にしろ、憲法改正にしろ、消費税にしろ、私たちの一票が集まって現状を打破することができるのです。


白票は無効票

 自分の生活を変えたい、もっと豊かに生活したい、こういう国にしてほしい、でも支持する政党はない。今この記事を読んでいる皆さんの中にはこんな風に考えている人も少なからずいるのでしょう。だから選挙に行かないんだと言う人、白票で投票する人、そんな方ももしかしたらいるのかもしれません。はっきり言って白票は良くないと思います。全く意味がないとは言いません。白票でも投票率を上げることは確かです。しかし、白票は無効票と同じです。投票率にはカウントされるけれども、候補者の当落に全く影響がないどころか、とある宗教団体や経団連みたいな組織票が有効票数の多数を占めることになります。つまり白票は最有力の候補者を消極的に支持していると言えます。もし支持する政党がないのなら、投票させたくない候補者、政党以外から選んだほうがずいぶんマシだと思います。これを戦略的投票と言うのだそう。白票でもいいから選挙に行った方がいいと言いますが、どっかの組織票が強い政党を応援するのならそれでもいいでしょう。しかし、今の政治に疑問を抱えていながら白票を投じるよりは戦略的投票を行ってもいいのではないかと思います。


終わりに

 国民にとって政治は生活に近いはずなのに、私たち若者はあまり興味がない現状です。そんな状況下では、有力な候補者にとってはうれしいだけです。思想は人それぞれなので、どこへ投票するのも自由ですが、投票という権利を捨ててしまうのはもったいないような気がしてしまいます。
次の衆議院選挙は増税後の景気に影響が表れない時期だとか、景気の良くなるオリンピック後だとか噂されています。どちらにせよ二年以内には国政選挙がやって来ます。政治に興味がなくても、政治はあなたの生活の要です。しっかりと自分の将来を考え、今の自分にとって最善だと思えるような投票をしてみませんか?

私も次の衆院選不在者投票で投票に行こうと思います。

もうすぐ七夕ですね。

 久しぶりの投稿です。

 8月に入りました。期末試験も残すところあと少し。試験が終われば、もうすぐ七夕ですね。

 

 「七夕って7月7日でしょ?」と疑問に思った方、実はちがうんです。こと私たちにとっては。

 

仙台七夕まつり

 

 仙台では旧暦に合わせて七夕祭りが毎年8月6日から8日まで、三日間にわたり盛大に開催されます。明日からです。なんと、本日8月5日には前夜祭として花火大会も催されます。

 仙台七夕まつりは「青森ねぶた祭り」と「秋田竿灯祭り」を加えて「東北三大祭り」と呼ばれるほど有名なので、耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

 

 「祭り」とは言いますが、仙台七夕まつりは一般的な祭りとは一味ちがっていて、巨大な山車や神輿が軽快な音楽とともに街を練り歩くとか、出店がアーケードを埋め尽くすように立ち並ぶとか、そういった様子は特段見当たりません。

 

 それでは、一体、人々は何を見に仙台七夕まつりに訪れるのか。

 

 答えはこの壮大な「七夕飾り」です。

 

f:id:jenesys2018_tohoku:20190805020026j:plain

 

 この七夕飾りは、少し前の写真ですが、確か2016年に金賞を受賞した作品だったと思います。まわりの飾りと比べてもひときわ目を引く迫力と華やかさに圧倒された記憶があります。

 

 七夕祭りの期間には、仙台市中心のアーケード街が個性的な七夕飾りで彩られます。絢爛な飾りは、各企業や商店が腕によりをかけて製作します。大きな七夕飾りがアーケードを一面に埋め尽くす様子は「圧巻」の一言につきます。

 

仙台七夕まつりのルーツ

 

 仙台七夕まつりの歴史は長く、記録が残っているだけで江戸時代から開催されていますが、現在のような形になったのは昭和2年。不景気を吹き飛ばそうと、商家の有志たちによって華やかな七夕飾りが復活しました。第二次世界大戦により一時は途絶えましたが、終戦の翌年昭和21年に再び復活しました。

 

 七夕祭り自体のルーツは、

 

仙台七夕まつりは田の神を迎える行事であり、青森ねぶた祭りや秋田の竿燈祭りの神を送る行事と違う点があり、 昔から周期的に襲う冷害(天明3年は25万人の死者、天保7年は30万人の死者)という悲惨な歴史を乗り越えようと、 豊作の保障と保護を田の神に祈ったことが、七夕まつりを盛んにしてきた理由となっている。

https://www.sendaitanabata.com

 

 

 と、仙台七夕まつりの公式サイトに書いてあることからわかるように、東北地方の気候と人々の暮らしが結びついて生まれた文化であるようです。これに加え、前述の通り、仙台七夕まつりは「商売繁盛」的な意味合いも強く付け足されているように感じます。ルーツが信仰でなく人々の活動にあるため、一般的な祭りとは異なる形態なのでしょう。

 

”七つ飾り”

 

 そして、夏の仙台の街を彩る七夕飾りですが、「七つ飾り」と呼ばれる7種類の飾りで構成されています。

 

短冊… 学問や書道の上達

紙衣… 病気や災難の厄除け、裁縫の上達

折鶴… 家内安全と健康長寿

巾着… 商売繁盛

投網… 豊漁・豊作

くずかご… 清潔と倹約

吹き流し… 織姫の織糸

https://www.sendaitanabata.com

 

 

 という風に、それぞれの飾りについて細かく意味があるようです。調べて初めて知りました。

 短冊〜くずかごの6つについては千羽鶴のように糸でつなぎ、それらを束ねたものが「吹き流し」です。(もし認識が間違っていたらごめんなさい)

 仙台では、吹き流しのてっぺんにはくす玉がついていますが、これは戦後、故人の霊を慰めるために広まったそうです。

 

 詳しい作り方が、これまた仙台七夕まつりの公式サイトに載っていたので、リンクを埋め込んでおきます。興味のある方はぜひトライしてみてください。

 

www.sendaitanabata.com

 

 立派で美しい七夕飾りですが、主に「紙と竹」からできているので、雨は天敵。前面に屋根がかかっているアーケード内では問題ありませんが、屋根が途切れているところでは、せっかくの七夕飾りを飾ることができません。

 昨年は天候に恵まれず、やや残念だった印象が残っていますが、今年は晴れてくれることを願っています。

 仙台七夕まつりは明日から3日間開催されます。明日8月6日は天候にも恵まれるようですので、近隣にお住いの方はぜひ訪れてみてください。お越しの際には、くれぐれも熱中症にはお気をつけください。

外来種問題について考える

こんにちは。そろそろ夏休みが始まりますね。夏休みと言えば、私は東北の田舎出身の自然大好きっ子でしたので、虫捕りだったり魚釣りだったりと、いろんな生き物で遊んでいた思い出があります。高校生の頃も地元の渓流でよく釣りをしていましたが、どこに何がいるのか調べるなかで、特定外来生物のブラッグバスが生息域を拡大していることを知りました。大きなダム湖やその下流域は知っていましたが、小規模で独立している水域においても同じ状況だったことを知り、驚いた記憶があります。地元の自然を外来種から守りたいという気持ちを込めて執筆します。

 

 

外来種とは

万が一外来種とは何か知らない人のために説明します。外来種とは本来の生息、生育地以外の地域から人為で運ばれてきた生物のことを指します。そのため外来種と一言で言っても「国外由来の外来種」と「国内由来の外来種」に大別することができます。理科の教科書で有名なブラックバスマングースなどの外来種は前者の方です。それら外来種の中には私たちの生活に有用な外来種もいれば、様々な問題を引き起こす外来種もいます。後者の方をまた「侵略的外来種」と呼びます。今週はこの侵略的外来種について、どのような問題を引き起こすのか、それを解決するにはどうしたらよいか、取り上げていきたいと思います。

 

 

 

外来種の何が問題なのか

 

当たり前のことですが、外来種も生きて行くには既存の生態系の一部を利用する必要があります。しかし言ってみれば外来種はよそ者です。長い時間をかけて絶妙なバランスが築かれている生態系に溶け込むのは容易ではありません。在来種を過剰に捕食してしまったり、テリトリー争いで追い出してしまったりすることで、生態系のバランスを崩してしまうということがあります。また、在来種と外来種が交雑してしまい純粋な在来種の遺伝子が失われる遺伝子汚染という問題も起こります。

こういった既存の生態系の崩壊、遺伝子汚染がなぜ良くないことなのか、それは生物多様性が失われるからです。生物多様性とは多様な生態系、種、遺伝子が存在することを表します。私たち人間は自然界から豊かな食料やきれいな水、観光資源などあらゆる恩恵を授かっていますが、直接的にも間接的にもすべての動植物がそこに携わっているため、生態系がより多様で複雑なほど、より多くの安定した恩恵を得ることが出来るとされています。未来の人類が豊かな自然の恵みを受けて暮らせるように、今の私達には多様性を守っていく義務があると思います。

 

 

外来種被害予防三原則

外来種から生物多様性を守るにはどうすれば良いか。環境省では外来種被害予防三原則というものを掲げています。「入れない」「捨てない」「拡げない」の三つです。「入れない」とは生態系への悪影響を及ぼすかもしれない外来種をむやみに他の地域に持ち入れないことを表します。「捨てない」は飼育や栽培で外来種を扱う場合に、それらを野外に捨ててはいけないというものです。「拡げない」は野外で外来種が繁殖している場合、それらをこれ以上「拡げない」というものです。

 

私たちにできること

以上が環境省で掲げているものになりますが、正直これは当たり前のことだと思いました。ですが、当たり前のことにも関わらず、外来種は今日も繁殖し続けています。それはなぜなのか。私は釣りが好きで、よく釣りの動画を見るのですが、その中にはブラックバス釣りの動画も結構あります。その中で動画内容やコメント欄を見て、外来種の危険性や対処法を知らない人が意外と多いのではないかと思うことが多々あります。そもそも昔の人が外来種について何も知らずに持ち込み、拡げてしまったために、今このような問題が起こっているわけですが、今もそれは変わらず外来種について知らない人が意図せず外来種問題を助長しているのではないか、と思ってしまいます。そのため、私は環境省の掲げている三原則に「外来種を知る」というものも加えたいと考えました。何が外来種でどんな問題を起こすのか想像する。そこから始める必要があるのだと思います。様々なものが行き交うこの世の中ではより一層外来種問題には気をつけなければなりません。外来種問題を解決するために、みなさんもまずは「外来種を知る」ことから始めて欲しいと思います。

 

情報社会で日本が生き残る方法

最近、プログラミングの学習を始めた。

言語はPython。AIシステムを開発するプログラミング言語として、ちょうどいま、ホットな言語だ。始めるにいたった契機は付き合いの長い一人の友人からの勧めである。

 

これまでの情報教育

 

実はこれまで何度かプログラミングを学習する機会はあった。もっとも、すべての機会を無下にしてしまい何一つ習得することはなかった。

 

一回目は中学時代、「技術」の時間にHTML言語を用いたWebページ制作を行った。

コピー&ペーストでほとんど完成まで導けるように雛形が用意してあった。裁量が残されていた部分は、たとえばアルファベットをちょっとだけ変えて文字の色を変えるとか、気に入ったフリー素材を脈絡なく挿入するとか、せいぜいその程度だった。

当時は何をしていたのか正直ちっともわからなかった。

ただぼんやりと、プログラミングないしインターネットの原理のようなものを感じることができた。Webページがどう作られているのか、アバウトなイメージを抱くことができた。その点においては、子ども向けの初歩的な教育として効果はじゅうぶんあっただろう。

 

二回目は大学で履修した情報の講義。今度はC言語を用いた。どんなことに取り組んだのか、もはや覚えていない。生産性のかけらもないようなひどい講義だったと記憶している。

 

どちらも講義はアナログな形式で行われた。PCが立ち並ぶ教室に集められ、リクライニング機能付きの回転する椅子に座り、教員が通りの悪い声で難解な話をする。難解な話を聞いたあとは実演の時間が設けられる。

なにしろ話が難解すぎるから(おまけにひどく退屈だった)、「さあやってみろ」と言われてもできるわけがない。だいいち、私は回転する椅子では集中できないから講義どころの話ではない。それに累計した授業時間自体も短いものだから、これで習得するのは無理がある。

いま分析すると、頭に浮かぶのは「ああ、こうして情報に苦手意識をもつ人間が増えるのか」という粗末な感想くらいだ。

 

なにを隠そう、私は大の機械音痴である。ネットショッピングなんて滅多に使わない。ついこの間まで電子書籍をバカにしていた。スマホも使いこなせていない。使う機能はブラウザ検索とLINEくらいだ。典型的なアナログ人間だと自己評価している。

 

私のような人間はインターネットのしくみを説明されても理解できない。

「インターネットは情報の海で〜」「網のように世界中と繋がって〜」(ここで無数の線がぐっちゃぐちゃに絡まった、およそプロが製作したとは思えないようなひどい図を見せられる)

「へえ、そうなんだ。で、その表現はなんの暗号だい?」

と、まあこんな具合である。専門的語彙を比喩によって明晰化してくれているのだろうが、暗号から暗号へ翻訳しているようで一向に的を射ない。脳が思考を放棄している。説明はすべて右から左へ駆け抜ける。そもそも前提がわかっていない。さらにひどいことに、わかろうとしていない。苦手意識がべったりと根を張っている。自分が使っている道具がどういう原理で動いているのか理解できないのだ。目も当てられない。

 

日本の現状と情報教育

 

さて、自分語りはこれくらいにして、本題に入ろうと思う。

 

昨今、巷では情報人材の不足という追い風を受けて情報教育の必要性が叫ばれている。なんでも、中国やアメリカでは、日本と比較して3〜5倍ものプログラミングをできる人材がいるという。(6月19日/日本経済新聞 社説より) 

確かに、現在の国際経済においてGAFAをはじめとした巨大プラットフォーマーが幅をきかせている。これは情報産業において高い技術力を保持していることの現れだろう。甘い蜜をすすっているのはほとんどがアメリカや中国など外国の企業だ。みんなが大好きな「インスタ」も「ユーチューブ」も米国。「TikTok」は中国。「LINE」の親会社は韓国。システムの発案者は親会社であるNHN社長の李海珍氏。開発陣は日韓米中と多国籍だ。決して純日本のシステムではない。

小さくも堅実なイノベーションの数々は国内で展開されているが、情報市場でおこるビッグ・イノベーションの中にはGDP第三位の経済大国・日本の「に」の字も見当たらない。日本ではスティーブ・ジョブズジェフ・ベゾスは生まれない。工業国としてハードの分野では無類の強さを誇る日本だが、今現在、莫大な利益を生んでいるソフトの産業で出遅れているのは火を見るより明らか。

情報産業を発展させるには技術者の絶対数が不可欠だ。

 

情報社会でこれから市場が広がるのは「情報」や「体験・感情」を売る産業だ。もはや小売業も単に「もの」そのものを売る業界ではない。「ものを買う」という体験や付随する感情を売っている。ビッグデータを活用したレコメンド機能はもはやインフラレベルで浸透している。そんな世界のトレンドに日本が遅れをとっている原因のひとつはなんといっても人材不足だろう。

だから、プログラミングをできる人材の確保は優先すべき課題だ。

 

そこで解決策として主張されるのが「情報教育の充実」である。

 

実際、東北大学でも世界に追随すべく2020年から全学部の学生にAI教育を義務化するそうだ。

 

そんななかで「教育できるエキスパートがそもそも足りていない」という問題がある。だから私たちは大教室に放り込まれる。数少ない教員は酷使される。苦手な人間がこれで習得できるわけがない。

さらに、初等義務教育にプログラミングを加えるらしいが、小中学校教諭でプログラミング経験のあるものがどれだけいるだろう。

 

しかし、教育できる人材が足りないことは、情報教育をはじめない理由にならない。現時点ですでに人材不足は深刻で早急な解決を要するからだ。

 

「人材が不足しているから教育して増やしたい」

「しかしそもそも教えられる人がいない」

「だが教育しなければ人材は増えない」

 

という板挟み状態になっている。いたちごっこ。無限ループ。

情報教育なんて義務教育ではできないだろうときっと誰しも感じている。しかし人材の絶対数を増やさなければいけないこともまた事実。どちらも正論言っているからもどかしい。

 

情報教育のあるべき姿とは?

 

なかなか現状を打破できないならばアプローチを変えるべきだ。

 

最先端で発展途上な技術を、なぜ伝統的手法によって習得させようとするのだろうか。なぜフェイス・トゥ・フェイスの古臭いスタイルにこだわるのだろうか。

 

二度のプログラミング教育で何一つ習得できなかった私が、いまPythonの学習に用いているのは 「Progate」という入門者向けのオンライン教材だ。リンクを下に貼っておこう。綺麗で見やすいデザインで、説明は驚くほどにわかりやすい。サクサク勉強できる。正直に言って、勉強をしていてかなり楽しい。モチベーションがちっとも低下しない。「プログラミングは難しい」という固定観念がすっかり溶解してしまった。

 

prog-8.com

 

少なくとも私の場合、学校で受けた情報教育よりも、オンライン教材を用いた自学の方が効果的だった。理由は明白。「わかりやすさ」の度合いが比較できないほどに異なるからだ。

今の世の中、ネットを探せば他にも優秀すぎる教材が転がっている。わかりやすい教育をできる人材が足りないのなら、せっかくの情報教育、いまある最新技術を駆使してオンラインで教育を行えばよいのではなかろうか。

わざわざ対面で講義をする必要などないだろう。

極端な話、教員は学生でもよいし、なんならPCに強いニートにだってできるかもしれない。よい教材を提供し、課題や試験を課し、最終的な評価を下すだけで役割としては十分だ。学生の質問に答えるようなインタラクティブなシステムでも用意できればなおよいだろう。

さらに、教材があればよいだけだから、実際に教鞭を執る人間は少数で済む。

 

おまけに、このような教育の形をとればリモート教育だって可能だ。わざわざ学校に行く必要もない。

オンライン教材ならば自宅のデスクから講義に参加できる。回転する椅子や使いなれていない大学のパソコンを使う必要もない。安定した椅子に座り、使いなれたマイ・パソコンを使って学習できる。PCを所持していない人は大学のパソコンを使えばいいし、自宅では気持ちが締まらないという人も大学に行けばいい。

裁量をもって選べるというのが現代的な形だろう。

ただ、これは決して普遍的な方法ではなく、大きな弱点がある。それは、自立した学習姿勢を持つ学生にしか通用しない点だ。

 

ここに記したことは、素人意見だが全くの的外れというわけでもないだろう(ことを期待したい)。

やれ道徳教育だ、やれ英語4技能だ、名前も知らないセンター試験の後釜テストだ、と迷走している現代の教育において、さらに取ってつけたように情報教育を加え、果たして効果を生むのだろうか。

ものづくりの分野において世界を牽引してきた日本が、ソフトの時代に取り残されつつある焦りはわからなくもない。しかし、課題の中心にいるIT技術だが、こむずかしい印象を受けるものの、所詮インターネットもコンピュータも人間が作った道具に過ぎない。私たちがすべきことは、それらを使いこなせるように練習するだけだ。

どうせやるならば便宜的に情報教育をつけくわえるだけでなく、効果的な方法をとったほうがよいに決まっている。難しく考えずに世の中を広い目で見れば、恋人のように片時も離れないスマートフォンからでさえ優秀な教材にアクセスできることはすぐにわかるはずだ。アプローチする手段は伝統的手法の講義形式の他にもあるのではなかろうか。というのが、「教育を受ける側」の一人としての意見だ。

世界の大学受験は厳しい?

 

 みなさんこんにちは。先日大学寮に住む中国人の友人と話していたところ、中国の高校生は部活動をしないという話題になりました。その理由を聞いたところ、中国の大学入試は厳しく、さらに学力至上主義なのだとか。日本もかなり受験は厳しく一発勝負の傾向にありますが、中国の方が圧倒的に厳しく聞こえました。また、他にも日本と違う点が多くありました。

 そこで今回は世界の大学受験制度について日本と比較しながら私の意見を綴っていこうと思います。

 

 

中国の大学受験

 

 まず私の友人に聞いた話を記します。

高校の時から寮で暮らし、学校では朝7時くらいから夕方6時くらいまで授業。それに加えて夜の時間は自習時間として学校に残って勉強、家に帰ってからも深夜まで勉強、といったように基本的に一日中勉強していたそう。そのため部活動などはできるわけもなく、一日の睡眠時間は四時間ほどだったのだとか。

 それでは、なぜ中国の人はここまで大変な試験を受けるのか。その理由は高校教育入学考試、通称”高考”と呼ばれる一発勝負の試験があるからだそう。日本のセンター試験のように大学にかかわらず同じ試験を受けるのです。

 中国では日本以上に「いい大学に行くと幸せになれる」という考え方が根付いているそうで、将来への不安はもちろん、親族など周りからのプレッシャーもすごかったそうです。

 彼は今大学院生で脳波の研究をしているのですが、日々論文の執筆に励んでいます。論文を多く書き、勉強の成果を出すことが中国でも重要なのだそうです。もうすぐ日本での留学は終わってしまいますが、よく時間が足りないと話しています。私から見るといつも勉強をしているように感じられるのですが、それ以上に勉強できるのは中国での厳しい勉強の経験があるからなのかもしれません。このようなハングリーな姿勢は私たちも見習わなければなりませんね。

 

 しかし、このように人生のうちの一つの試験だけでその後の人生が決まってしまうのはいかがなものでしょう。それによる精神病やカンニングなどの事件も多発しているようですし、何より、思春期の多感な時期に勉強以外のことができないことは好ましくないのではないかと思います。

 ただ、優秀な人材を中国の大人数の中から見つけ出すのには有用なのかもしれません。国力をあげるためには技術力を、技術力を高めるためには頭脳が必要ですから。

 私個人としては、中国が頭脳面で有能な人材が増えるように、メディアをはじめとして「いい大学に行くと幸せになれる」という潮流を作り、競争を促しているのではないかと感じました。この考え方は間違いではないかもしれませんが、

ペーパーテストが出来る = 有能な人材

というのは間違いだと思います。だから、勉強以外にも必要な力があることが中国の人々にも広まり、大学受験がゴールとならないような教育になると良いと感じます。

 

先進国の受験制度

 

 それでは先進国の受験制度はどのようになっているのでしょうか。例えばアメリカは入学基準は統一されておらず、SAT(Scholastic Assessment Test)やACT(American College Testing Program)と言った年に複数回受験できる制度もあるようです。それから、高校の成績やエッセイ、インタビューが入学試験となることもあるのだとか。

 ドイツでは”アビトゥーア”と呼ばれる大学入学のための国家資格を持っていると、原則として希望する大学、専攻に入学することができます。ただ、誰もが取れるわけではなく、小学校に当たる基礎学校で4年間過ごし、”アビトゥーア”を取ることを前提とした”ギムナジウム”に八年間通う必要があるのだとか。アビトゥーアの点数の2/3はギムナジウムの成績で、最後の試験が点数の1/3を占めます。最終試験の機会は年2回ほどあり、記述問題形式の筆記試験と口述試験があるそうです。

 フランスにもバカロレアという大学入試のための国家試験があり、アビトゥーアと同じようなシステムです。こちらの点数は試験で決まりますが、予備試験と本試験があり、二階の総合点で判断されます。また、一定の点数以上取って不合格になった場合には後述の際試験があるそうです。

 このように見てみると、先進国では大学入試のための試験に複数回挑戦可能であり、筆記以外の試験も重視されていると考えられます。また、高校の成績や高校時代の試験も使用されることがあるようです。

 

日本と比べてみて

 

 今回は中国と先進国の受験制度を調べてみました。みなさんはどのように感じたでしょうか。私は、日本の受験制度はまだ進んでいないのだなと感じました。程度に差はあれ、日本でも受験は一発勝負の傾向にありますし、勉強ができていい大学に行くことが重要だという風潮は未だにあります。

 しかし、グローバル化した社会では勉強だけではなく、異文化の適応力や会話力などが必要とされます。以前のように勉強ができればいいというわけではなくなりました。

 ただ、ようやく日本の大学受験にもやっと変革期が訪れそうです。来年から一部の国公立大学で外部の英語試験の点数を参考にする取り組みが始まったり、再来年にはセンター試験がより話す、聴く力を重視するものに変化したりするようです。正直その変化が日本にあっているかは分かりませんし、どれほどの効果があるかも分かりません。しかし、

 

大学受験がゴールではありません。

 

 このことは大学に入ってひしひしと感じます。ペーパーテストの能力だけでは通用しないことも、大学二年生の時点で強く感じます。だから、今すぐでなくても、勉強だけではなく、その人の会話力などを考慮した教育、受験制度となり、世界で戦える人材の多い国になってほしいと願います。