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情報社会で日本が生き残る方法

最近、プログラミングの学習を始めた。

言語はPython。AIシステムを開発するプログラミング言語として、ちょうどいま、ホットな言語だ。始めるにいたった契機は付き合いの長い一人の友人からの勧めである。

 

これまでの情報教育

 

実はこれまで何度かプログラミングを学習する機会はあった。もっとも、すべての機会を無下にしてしまい何一つ習得することはなかった。

 

一回目は中学時代、「技術」の時間にHTML言語を用いたWebページ制作を行った。

コピー&ペーストでほとんど完成まで導けるように雛形が用意してあった。裁量が残されていた部分は、たとえばアルファベットをちょっとだけ変えて文字の色を変えるとか、気に入ったフリー素材を脈絡なく挿入するとか、せいぜいその程度だった。

当時は何をしていたのか正直ちっともわからなかった。

ただぼんやりと、プログラミングないしインターネットの原理のようなものを感じることができた。Webページがどう作られているのか、アバウトなイメージを抱くことができた。その点においては、子ども向けの初歩的な教育として効果はじゅうぶんあっただろう。

 

二回目は大学で履修した情報の講義。今度はC言語を用いた。どんなことに取り組んだのか、もはや覚えていない。生産性のかけらもないようなひどい講義だったと記憶している。

 

どちらも講義はアナログな形式で行われた。PCが立ち並ぶ教室に集められ、リクライニング機能付きの回転する椅子に座り、教員が通りの悪い声で難解な話をする。難解な話を聞いたあとは実演の時間が設けられる。

なにしろ話が難解すぎるから(おまけにひどく退屈だった)、「さあやってみろ」と言われてもできるわけがない。だいいち、私は回転する椅子では集中できないから講義どころの話ではない。それに累計した授業時間自体も短いものだから、これで習得するのは無理がある。

いま分析すると、頭に浮かぶのは「ああ、こうして情報に苦手意識をもつ人間が増えるのか」という粗末な感想くらいだ。

 

なにを隠そう、私は大の機械音痴である。ネットショッピングなんて滅多に使わない。ついこの間まで電子書籍をバカにしていた。スマホも使いこなせていない。使う機能はブラウザ検索とLINEくらいだ。典型的なアナログ人間だと自己評価している。

 

私のような人間はインターネットのしくみを説明されても理解できない。

「インターネットは情報の海で〜」「網のように世界中と繋がって〜」(ここで無数の線がぐっちゃぐちゃに絡まった、およそプロが製作したとは思えないようなひどい図を見せられる)

「へえ、そうなんだ。で、その表現はなんの暗号だい?」

と、まあこんな具合である。専門的語彙を比喩によって明晰化してくれているのだろうが、暗号から暗号へ翻訳しているようで一向に的を射ない。脳が思考を放棄している。説明はすべて右から左へ駆け抜ける。そもそも前提がわかっていない。さらにひどいことに、わかろうとしていない。苦手意識がべったりと根を張っている。自分が使っている道具がどういう原理で動いているのか理解できないのだ。目も当てられない。

 

日本の現状と情報教育

 

さて、自分語りはこれくらいにして、本題に入ろうと思う。

 

昨今、巷では情報人材の不足という追い風を受けて情報教育の必要性が叫ばれている。なんでも、中国やアメリカでは、日本と比較して3〜5倍ものプログラミングをできる人材がいるという。(6月19日/日本経済新聞 社説より) 

確かに、現在の国際経済においてGAFAをはじめとした巨大プラットフォーマーが幅をきかせている。これは情報産業において高い技術力を保持していることの現れだろう。甘い蜜をすすっているのはほとんどがアメリカや中国など外国の企業だ。みんなが大好きな「インスタ」も「ユーチューブ」も米国。「TikTok」は中国。「LINE」の親会社は韓国。システムの発案者は親会社であるNHN社長の李海珍氏。開発陣は日韓米中と多国籍だ。決して純日本のシステムではない。

小さくも堅実なイノベーションの数々は国内で展開されているが、情報市場でおこるビッグ・イノベーションの中にはGDP第三位の経済大国・日本の「に」の字も見当たらない。日本ではスティーブ・ジョブズジェフ・ベゾスは生まれない。工業国としてハードの分野では無類の強さを誇る日本だが、今現在、莫大な利益を生んでいるソフトの産業で出遅れているのは火を見るより明らか。

情報産業を発展させるには技術者の絶対数が不可欠だ。

 

情報社会でこれから市場が広がるのは「情報」や「体験・感情」を売る産業だ。もはや小売業も単に「もの」そのものを売る業界ではない。「ものを買う」という体験や付随する感情を売っている。ビッグデータを活用したレコメンド機能はもはやインフラレベルで浸透している。そんな世界のトレンドに日本が遅れをとっている原因のひとつはなんといっても人材不足だろう。

だから、プログラミングをできる人材の確保は優先すべき課題だ。

 

そこで解決策として主張されるのが「情報教育の充実」である。

 

実際、東北大学でも世界に追随すべく2020年から全学部の学生にAI教育を義務化するそうだ。

 

そんななかで「教育できるエキスパートがそもそも足りていない」という問題がある。だから私たちは大教室に放り込まれる。数少ない教員は酷使される。苦手な人間がこれで習得できるわけがない。

さらに、初等義務教育にプログラミングを加えるらしいが、小中学校教諭でプログラミング経験のあるものがどれだけいるだろう。

 

しかし、教育できる人材が足りないことは、情報教育をはじめない理由にならない。現時点ですでに人材不足は深刻で早急な解決を要するからだ。

 

「人材が不足しているから教育して増やしたい」

「しかしそもそも教えられる人がいない」

「だが教育しなければ人材は増えない」

 

という板挟み状態になっている。いたちごっこ。無限ループ。

情報教育なんて義務教育ではできないだろうときっと誰しも感じている。しかし人材の絶対数を増やさなければいけないこともまた事実。どちらも正論言っているからもどかしい。

 

情報教育のあるべき姿とは?

 

なかなか現状を打破できないならばアプローチを変えるべきだ。

 

最先端で発展途上な技術を、なぜ伝統的手法によって習得させようとするのだろうか。なぜフェイス・トゥ・フェイスの古臭いスタイルにこだわるのだろうか。

 

二度のプログラミング教育で何一つ習得できなかった私が、いまPythonの学習に用いているのは 「Progate」という入門者向けのオンライン教材だ。リンクを下に貼っておこう。綺麗で見やすいデザインで、説明は驚くほどにわかりやすい。サクサク勉強できる。正直に言って、勉強をしていてかなり楽しい。モチベーションがちっとも低下しない。「プログラミングは難しい」という固定観念がすっかり溶解してしまった。

 

prog-8.com

 

少なくとも私の場合、学校で受けた情報教育よりも、オンライン教材を用いた自学の方が効果的だった。理由は明白。「わかりやすさ」の度合いが比較できないほどに異なるからだ。

今の世の中、ネットを探せば他にも優秀すぎる教材が転がっている。わかりやすい教育をできる人材が足りないのなら、せっかくの情報教育、いまある最新技術を駆使してオンラインで教育を行えばよいのではなかろうか。

わざわざ対面で講義をする必要などないだろう。

極端な話、教員は学生でもよいし、なんならPCに強いニートにだってできるかもしれない。よい教材を提供し、課題や試験を課し、最終的な評価を下すだけで役割としては十分だ。学生の質問に答えるようなインタラクティブなシステムでも用意できればなおよいだろう。

さらに、教材があればよいだけだから、実際に教鞭を執る人間は少数で済む。

 

おまけに、このような教育の形をとればリモート教育だって可能だ。わざわざ学校に行く必要もない。

オンライン教材ならば自宅のデスクから講義に参加できる。回転する椅子や使いなれていない大学のパソコンを使う必要もない。安定した椅子に座り、使いなれたマイ・パソコンを使って学習できる。PCを所持していない人は大学のパソコンを使えばいいし、自宅では気持ちが締まらないという人も大学に行けばいい。

裁量をもって選べるというのが現代的な形だろう。

ただ、これは決して普遍的な方法ではなく、大きな弱点がある。それは、自立した学習姿勢を持つ学生にしか通用しない点だ。

 

ここに記したことは、素人意見だが全くの的外れというわけでもないだろう(ことを期待したい)。

やれ道徳教育だ、やれ英語4技能だ、名前も知らないセンター試験の後釜テストだ、と迷走している現代の教育において、さらに取ってつけたように情報教育を加え、果たして効果を生むのだろうか。

ものづくりの分野において世界を牽引してきた日本が、ソフトの時代に取り残されつつある焦りはわからなくもない。しかし、課題の中心にいるIT技術だが、こむずかしい印象を受けるものの、所詮インターネットもコンピュータも人間が作った道具に過ぎない。私たちがすべきことは、それらを使いこなせるように練習するだけだ。

どうせやるならば便宜的に情報教育をつけくわえるだけでなく、効果的な方法をとったほうがよいに決まっている。難しく考えずに世の中を広い目で見れば、恋人のように片時も離れないスマートフォンからでさえ優秀な教材にアクセスできることはすぐにわかるはずだ。アプローチする手段は伝統的手法の講義形式の他にもあるのではなかろうか。というのが、「教育を受ける側」の一人としての意見だ。